Friday, April 15, 2005

Art&Blue-Liberalism 青き自由主義

 これは筆者が2005年から2006年にかけて執筆した1~9章を再掲載して、そして書きそびれた最終章をあの若き頃に馳せて書き綴ったあの10年以上たった書き足す。
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この場で述べる『青き自由主義』は効率的な自由市場主義を維持し必需的な人間社会の保守性をも考慮した社会の自由解放主義を主張します。

【自由主義(リベラリズム)の定義】


* まず初めに日本語文章において特別に自由主義全般についておおまかにのべる必要があります。  明治維新後、欧米文化が急速に浸透し膨大な量の外来の学術、政治用語を日本語に訳す必要がでてきました。 その時点で数々の外来語があやふやに訳されてしまった歴史があることは周知の事実でしょう。 自由主義もそのなかの一つで日本人が理解することを難儀となろうものでしょう。 そもそも自由とはフリーダムともリベラルとも訳されます。 むろんこの文章で述べているのはリベラルです。 フリーが『制限の無い自由』であるのに対してリベラルとはいわば『制限のある自由』とでもいえるでしょう。




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【偉大なる自由主義哲学者アダム・スミス殿】


 そもそも経済学という学問も自由(リベラル)派哲学によって研究が開始されたのです。 かの偉大なる経済学の父と敬われるアダム・スミス殿もトマス・ハチスン教授から自由主義哲学を学び彼の思想と出筆の根底を築き、そして大学の先輩にあたる啓蒙思想の大家デヴィット・ヒューム氏が彼のアカデミック活動に助言を与え学友として彼の支えとなることにより彼の啓蒙主義(Enlightenment)に影響されました。 そもそも経済学においてもっとも基礎をなす要素として需要曲線と供給曲線が交わる位置にある均衡(Equilibrium)においての価格と生産高の決定要素も自由(リベラル)な決定手段と定義されます。 生産価格と生産高が自由(フリー)に際限の無く決定されるのではなく、均衡点(Equilibrium)においてもっとも効率的に生産され流通される。 そしてその均衡点はもっとも自由(リベラル)な価値基準、つまり環境、技術力や労働力によって制限された状態でもっとも需要と供給が効率的に重なりあう生産基準点なのです。 そして封建主義的な尊厳による、たとえば相互の相続関係による貴族階級による農民や工職人からの『御恩と奉公』による強制的物流関係でもなく、未開の地での金銭勘定の無い物理交換もしくはその日暮らしの狩猟生活によるものでもない、すなわち市場を中心とし貨幣交換というものさしを用いたより流動的物理交換を成し遂げた自由派哲学がアダム・スミス殿により『経済』という体系として誕生したのです!

【前置き:スミス→リカード→マルクス→ヴェーバー→ケインズ ⇒ 自由主義の行方…】

【序論:個人と社会】

【自由主義の到来と社会経済政策図】

【直接民主主義と間接民主主義および官僚主義】

【典型的な集産主義である共産主義】

【多様な社会主義】

【アナーキズム/無政府理論】

【無政府理論とマルクス主義:ヘーゲル左派】

【最終章:マックス・シュティルナー:究極の自由主義者】 (10年以上の時を超えて書き足し!!)



 
ABL:【前置き:スミス→リカード→マルクス→ヴェーバー→ケインズ ⇒ 自由主義の行方…】
2017-11-13 21:02:52 | Art&Blue-Liberalism
【スミス→リカード→マルクス→ヴェーバー→ケインズ】

 しかしアダム・スミス殿が生きていた時代から現代の世の中に至って自由主義の価値観もだいぶ多岐にわたるようになりました。 スミス派経済学が誕生してまもなくデヴィット・リカード氏によりスミス氏が掲示しそこなった更に実践的な経済構造が客観的に考察されていきました。 リカード氏いわくは:   物質そのものがもつ『価値』はその生産過程の最終段階で決定されその土地の労働資本の質および土地の質によりも変化するなど現代の経済学において基礎を築いたスミス殿の説からさらに基本となる摂理を考案していきました。  また彼は国際貿易はスミス殿の提示した『完全利点』による貿易でなく『相対利点』による貿易の理論を啓示しました。 つまりは一つの国の一つの生産物の絶対的生産量に委託するのではなく2つの国の同じ2つの生産物を比べて、どちらの国が片方の生産物の生産をあきらめた場合どのぐらいの値でもう片方の生産物を生産できるか、という理論です。 そしてこの貿易理論が現代のグローバル貿易理論においてほぼ100%応用されています。 

 またリカード氏の経済学において最も影響力のある背景は彼が『集産主義』の原点を築いたことにあります。 つまりは税金や行政的影響力による『富の再分割』です。 社会を発展させる上である程度経済構造において賃金および物流交換の集積をおこない一部を公共事業、福祉、教育および行政発展にあてるという理論です。 
 このリカード氏の『集産理論』は後にかの有名なカール・マルクスの『資本論』においてさらに深く応用していきました。 しかし、リカード氏が集産理論を客観的に考察したのに対し、マルクスはそれの極論『計画経済理論』を打ち出しました。 その上で『資本論』の結論もリカード氏の『経済政策と税政策』の結論と異を決するものとなりました。

 マルクスの『資本論』において打ち出された集産主義こそがすべての階級に位置する個人を資本主義において築かれた契約から開放する自由主義と当時から現代に至り支持されてきました。 マルクスの理論はスミス氏とは異なり『巨大な行政』による計画経済および超福祉国家の大成を志としています。 資本主義により生じた生産階級(ブルジョワジー)と労働者階級(プロレタリア)の間での貧富の差の拡大はマックス・ヴェーバー氏も共感し彼の理論もまたマルクス主義の背景を彷彿させるものとなりました。 しかしマックス・ヴェーバー氏はマルクスが啓示した『計画経済』および『巨大な行政』は結局のところ行政を肥大しそれを管理する官僚達の社会的地位が向上し新たなる階級社会を迎えるという懸念を示しました。 ヴェーバー氏いわくは確かにマルクスが言うように経済力は個人の社会的地位を決定付ける重要な要素の一つではあるが、他にも個人の『団体』や『格式』なども影響を及ぼす要素だと決定づけています。 ヴェーバー氏が経済的物流を効率化するには『労働組合』や『学者団体』などの団体による影響力およびマルクス主義とは異なる『政治構造』の転換を提示しました。

 後に自由市場経済の歴史上最も名の残るカタストリフィーがおこりました。 ニューヨークのダウンストリートからおきた『世界大恐慌』です。 超巨大化した西欧列強国による植民地政策および世界貿易による物価の大変動、大企業による横暴な市場独占などによる物流の停滞およびビジネスサイクル(経済の景気変動)の不調整。 この世界恐慌の起きた理由はアダム・スミス殿の『国富論』においての経済理論でも触れられている事実によって生じたものです。 物流の停滞が賃金率が利潤率に対し低下したことが原因の一つであります。 およびその当時までの自由市場経済(計画経済のアンチテーゼ)いわくは「ビジネスサイクルは放任しても自然に循環する」という理論でした。 また古典派経済学者からも保守されている理論ですがでもあります。 しかし、この理念が『世界大恐慌』が起こったことにより非難されました。 その理論はもう一人の天才経済学者ジョン・メイナード・ケインズ殿によって裏付けられました。 



【自由主義の行方…】

 上記の文章においては『経済的視野においての自由主義』について述べてきました。 しかし我々にとってもう一つ重要なことは『社会的視野においての自由主義』についての考察です。 それは次章の 【序論:個人と社会】をお読みになる上で理解いただけるでしょう

 このポストモダン社会において自由主義の定義は非常に複雑なものと化しています。 特に「ビジネスサイクルは放任しても自然に循環する」という理念を硬く誇示する経済的復古主義ともいえる古典派経済、顕著な新自由主義、の台頭およびソ連型共産主義による自由主義の否定による反自由主義(アンチリベラリズム)の存在、および今最も左翼学生運動により 尊まれている『協同的自由主義』および『新国際主義』がより現代の世の中においてより自由主義の定義と私のような『自由主義者』たちの存在をより説明を困難とさせるものと変貌させていきました。 

また経済学においても『経済的復古主義/古典派経済』、『相対利点貿易』、『集産/計画経済』、『ケインズ派経済』の経済社会学的見直しを迫られています。

『新自由主義』は80~90年代においてレーガン&サッチャー(日本においては中曽根総理)の政策および現代共和党ブッシュ政権率いるアメリカ合衆国が行っている帝国主義経済が市場経済の存在に対する懸念をつのらせ、『相対利益貿易』は現代の第一世界と第三世界においての絶対的生産力の格差および行政不安定により均一な取引が達成できない事実が浮かびあがり、『集産/計画経済』の理念はソ連型共産主義の横暴な集産/計画経済によりゆがめられ、その他先進国においての官僚主義の肥大を招きました。 そして英国で敬われている新労働党のゴードンブラウン氏による『ゴールデンルール≒財政政策重視≒ケインズ政策』は英国だけでなくヨーロッパ諸国においても尊敬されていますが、戦後日本の経済を至極急速に発展していきた『日本型ケインズ経済政策』はその高度経済成長期の悪しき遺産として急物価高騰、スケールの大きい財政政策による官僚主義の肥大および企業と政治の癒着を招き日本においては非常に人気が薄いです。 

18世紀ヨーロッパの啓蒙思想においての自由主義から20世紀初頭に台頭したヘーゲル左派などの無政府革命思想による自由主義、戦後起こった新保守主義もしくは新右翼とよばれたアメリカ合衆国やサッチャー政権下の英国保守党を中心とした新自由主義経済、そして改めて見直される『アナキズム(無政府主義)』。 自由主義は経済、社会、行政そして性(SEX)にわたるまで考察され細分化されていきます。 これからの自由主義への世界の個人達によっての見解は変化していくのでしょうか? そして当HPの『青き自由主義』への評価はいかに?

 

【序論:個人と社会】


 どうして自分がその場所にいるか考えたことはありますか? 人生においての選択はどのようにして決められたのでしょうか? 当たり前だと考えることについて疑問を持ち始めたときがそれを考える第一歩となるでしょう。 私たち個人は社会のなかで生活しています。 そのなかで常識が作られそれにしたがうことを徳とされることが多いでしょう。 生きていく環境の秩序を守るために立法機関が法律を定め行政機関が政治を担っています。 そして長年人類は貨幣というものを発明し物流を発達させそれぞれ個人を分業化および専門化することにより生産物の分配を効率化させ経済を発達させてきました。 そして社会のなかで個人は個人どうしと接することで生活していきます。 個人どうしが社会を形成しあい、そして社会が個人の人格や環境を形成していきます。 そのなかで個人のエゴは互いの関係を安全なものにするためまた社会の秩序を保つためにおのずとながら制限されていきます。 その制限は社会のなかの常識、価値観、法、および環境によって定められるでしょう。 そして個人はそれぞれ違う形で生きていきます。 要領よく無難に生きるために世間の常識と価値観に従い生きるか社会の矛盾に反旗を翻し己の信念を信じ常識と価値観を疑うか。 人を指導する立場にあるか指導される立場にあるのか。 気のある相手を魅了することが容易であるか、多少の努力を用いるか、その課程で相手に失望するか、環境がその行動を容認しないか。 このように個人の行動が決定されていきます。 その個人の行動に対する構造が歴史の中で構成されてきました。 多数の個人の意見を採択するために多数決により秩序の維持方法を決定する構想(民主主義)、秩序の維持する構造もしくは超人的な存在に依存し個人の意思を最小限に抑え確固たる権威に従う構想(権威主義、全体主義)、個人の意思決定および実力を最大限に肯定することを重視する構想(個人主義、自由主義)があります。
 

【自由主義の到来と社会経済政策図】


 自由主義はヨーロッパの啓蒙思想によって培われた思想で元来権威や古いしきたりからの人間社会開放を意味していました。 近代初頭のころはもっぱら保守的なアンシャンレジームからの開放を目指した左翼思想としてみなされていました。 そして重商主義からの開放による自由貿易主義(Free Trade Movement)も当時はリベラル側を代表していました。 しかしその後、地域間、国家間での貿易が拡大し富豪や王族が支配する封建時代から資本家が市場貿易経済の中枢をになう資本主義時代に移り変わり権限より資本、財産のがものをいうようになり自由貿易主義(Free Trade Movement)の形態も変わりました。 その時代に社会主義、共産主義さらにはフェミニズムなどの集産主義的左翼が台等し、資本主義自体が保守側にてんじ、経済社会に対する改革をせまられ始めた時代から現代において政治思想が左翼右翼の1次元的なものから経済、社会、性など多元的なものになり自由主義も多極化しました。 それで自由貿易を主体とし政府の市場介入を最小限に控え自由放任を重んじ各企業経営の柔軟性と個人単位の自己管理を重視する「小さな政府」を支持する立場である政策は、個人の自由を最大限に肯定し社会の定まった基準と価値観からの開放および反独裁体制を意味する古典的自由主義に対して、新自由主義と呼ばれるようになりました。 古典的な自由主義が社会的に左翼であれば新自由主義は経済的に右翼という理論になります。





そして社会的に極右側が権威主義は独裁主義、社会的に極左側が自由主義は無政府主義、経済的に保守派である右翼側は古典経済主義/新自由主義、経済的に改革的つまりは集産主義である左翼側は共産主義。 では民主主義、官僚主義、資本主義、社会主義はどこに位置しているのでしょうか?



 【直接民主主義と間接民主主義および官僚主義】

まず民主主義ですが、これは主に権威主義と自由主義の狭間にいちしています。 つまりは権威主義の極派に位置する独裁主義より政治を多数の個人にゆだねる構造ですので自由主義に近く、自由主義の極派である無政府主義より個人の集結である大衆が議会もしくは協議によって意見を採択し個人単位の果敢な行動は制限される構造ですので権威的でしょう。 また民主主義も直接民主制と間接民主制と違いがあります。

 直接民主主義とは古代ギリシアのアテネで実施されていたことで周知の体系で市民すべてが議会にあつまり物議をかまします。 かわって現代のほぼすべての民主主義国家の体系である間接民主主義は市民から代表を選びその代表が他の市民を代表して議会に出席します。 また民主主義を制度としているが市民の代表であるはずの議員が市民の代表であることから独立し大衆の意見の採択より自らの地位と議会の構造維持に先取りされ政治の中枢としての機能を失い、それに変わり実務力のあり厳しい試験を潜り抜けたエリートで政府機関の中枢として働く官僚が政治を担う制度を官僚主義といいます。 また、王や皇帝などの君主が直接政治の実権をにぎらず忠実な配下の官僚たちに国務を任せた政治構造もまた官僚主義です。 官僚主義は近代化にともない複雑化した社会政策を効率的なものにするために実務を分業化および組織化し構造を担うだけの能力を培った教育を受けた構成員による社会経済政策を実施するものです。 官僚主義は複雑な実務の処理、政策の安定および的確な構成員の抜擢には効率てきです。 しかし、権威の象徴である君主もしくは大統領などの存在感は無く行動力に欠け民衆の意見を直接採択するものではない。 そして合理化され柔軟性および人間性に欠ける構造でもあります。 



【典型的な集産主義である共産主義】

さて次は共産主義と社会主義の違いを説明します。 これは経済学、政治学もしくは社会学を勉強された方々以外には具体的な違いがうまく理解できないかもしくは表現し難い方々が多いようです。

ちなみに社会主義と共産主義の違いですが、まあどちらにしても権威形と自由形の歩合にもよりますが...;

共産主義は真に平等の社会という目的を掲げ個人の所有をなくし一貫して全ての所得の共有化および金銭による経済取引の廃止を促す集産主義の端に位置する経済的極左思想です。 

マルクス主義が一番有名ですね。 もとのマルクス主義の中では資本主義社会の中で社会主義への革命が起きその後社会主義社会の中で共産主義革命が起きた後に迎える社会で無政府社会革命が起きる前の課程社会であるという理念です。

現代社会でよくマルクス主義について誤解されることはマルクス・レーニン主義とソビエトおよび中国共産党が元来のマルクス主義と完全に同じものではないということが解らない人が多いということです。 マルクス主義が労働者階級の教育水準の向上および生産階級からの支配に対する反乱による革命遂行を原論としているがレーニンは超インフレーションによる経済構造の崩壊および軍事力による旧専制君主儀体制の打破による革命遂行をおこなったことが事実です。 そしてレーニンはマルクス主義を掲げていたが実際に彼の思想とは違っていたため平等社会はまったく達成されなかったのです。 これらの事実はもとのマルクス主義に立ち返り現代社会の経済構造においての新思想という構想に基づいた『新マルクス主義』によっても批判されています

他にも無政府理論共産主義や原始共産主義や真キリスト教的共産主義などがあります。 共産主義を考案した人はマルクスやレーニンだけではないのです。 古代ギリシアの有名な哲学者プラトンも最も著名な共産主義者の一人でシチリア島に実験的に共産主義社会を築いたりしました。 もともとキリスト教自体も新約聖書の文献からも伺えるよう金銭交換と個人所得を廃止し全ての所得の共有を促しています。 そのもとのキリスト教の考え方を近代の世で実践しようと考察したのがトルストイという穏健派無政府共産主義者です。  また工業文明に染まった国での共産主義理念の発達にしごく懐疑的で政府および経済機構の破壊を行うことによる闘争と団結による革命を支持したロシア貴族の血を引くミハイル・バクーニンという過激派無政府共産主義者もいます。  このマルクス、トルストイおよびバクーニンについては【無政府理論とマルクス主義:ヘーゲル左派】でまたくわしく述べます。 無論、新マルクス主義者達のなかにも元来のマルクス主義で触れられていた共産主義を主張するものもいます。 

そして東西冷戦後期に活躍した暗鬱なスターリン主義に染まったソ連的共産主義とは異色を放つオリーブ色をモチーフとした明るい『ラテン系共産主義』を誇示したキューバ革命のフィデル・カストロも忘れてはいけません。 キューバはもともと米国と地理的に近い位置にあり以前から米国からの干渉が強い状態にありましたが、国民はスペイン語を話し米国との貧富差は歴然でして反米的アイデンティティは強烈でした。 無論それらの事実には世界大戦以前からの植民地政策による歴史的拝啓があり、また東西冷戦のさなか米国とソ連の陣取り合戦の渦に巻き込まれていました。 その拝啓のさなかキューバの経済的独立を掲げたカストロ率いる革命ゲリラ勢力によりキューバ革命が遂行されました。 彼は大統領に就任してからも共産主義理念にもとづき統治者でありながら国の平民と同じく質素な食事をとり生活を送っていることから現代社会においても共産主義者たちから英雄視されています。 しかし、彼の政治的思想に感化されているいくつかの南米諸国、たとえばベネズエラ、は市場経済を完全に否定した共産主義のもと豊富な油田を所持し穀物自給率を上げるだけの可能性がありながら経済発展が停滞気味で共産主義を唱えながらも今だ貧富さは必然的に肥大しています。

以上述べた共産主義者達および現代に生きる元来のマルクス主義的共産主義者達およびアナコ・シンディカリスト(無政府革命主義者)達は金銭による生産物の流通および個人の所得独占を廃止し聖書やプラトンのイデア理論に書かれた政治経済組織のなく個人の力関係が均一である『ユートピア(楽園)社会』の建設を夢見ていました。 虐げられてきた多数派の被支配階級に位置する個人を社会的苦しみから開放することが彼らの理想でした。 確かに彼らの生きていた時代は封建時代から残る貴族階級の富の独占のなごみがあり、また市場経済における賃金の循環および地方においての競争状態も発展途上でした。その現実の中で生まれた社会階層が個人の人生の可能性を大きく決定していました。

 しかし、彼らはは現代の世に仲においてのより循環的な経済基盤の発達による富の再分割および経済力以外の個人の社会的地位を左右する力の存在の理解にかけているという批判があります。 元来のマルクス主義に基づいた大半の新マルクス主義者達はスターリン主義や早熟な共産主義革命の遂行よりも経済構造の改革を重視した緩やかな課程を支持しています。 しかも共産主義理念を支えている哲学的拝啓は『人間性強説』、つまりは人間とは元来強い精神生命体であり精神的に計画性があり、宗教や超自然的な権威に依存せずとも独立し秩序を保てるという理念、に基づいています。 これは近代ヨーロッパで起こった啓蒙主義思想で培われた理念で封建時代的旧体制からの打破を目指すものでした。 そしてそれはベルリン学生運動で活発化しパリコミューンで開花した『ヘーゲル左派』が発展させていきました。 そして当時『ヘーゲル左派』の一員をなしていたカール・マルクスはその『ヘーゲル左派』よりも更に『人間性強説』を誇示していきました。
 
* 人間の性にての他の理念は、キリスト教が唱える罪の意識を誇示する『人間性悪説』、イスラム教徒の聖典による教化を唱える『人間性弱説』、多神教を信じ神と人間を同等なものと考え人間の間での契約よりも信頼と和を重んじる日本社会に根付く『人間性善説』などがあります。 

この文章をお読みになって筆者が『反共産主義者』であることをお見受けされるとおもいます。 一つ重要なことは、ヒトラー率いるナチス党よりも多数のかけがえのない個人達の命を横暴に奪っていった『ソ連』およびその他『スターリン主義者』に対しては非常に強い憎悪を抱いていますが、筆者は決して全ての『共産主義』を憎むというステレオタイプ的な行為は行いたくはありません。 現にキリスト経典やプラトンのイデアも別の形の共産主義色をはなっておりますし、元来のマルクス主義も被支配者階級の『誤った良識(False Consciousness)』からの開放による革命を強調しています。 ただ筆者は凝固な『人間性強説』を唱える『共産主義』および『(新旧)マルクス主義』が明示する以上に人間とは強く計画性のある精神生命体なのであろうかという疑問があります。 経済と社会がともに『完全に計画的』に動く・・・果たして人間的かつ動物的な欲望や懐疑心、非完全さはどのようにして解消されるという疑問が彷彿されます。 人間をここまで『強く』するそのような社会がいずれくるか否かは予想できませんが、このサイトの『自由主義』はそもそも『性強』でなければ『性悪』、『性弱』でも『性善』とも異をなす人間の性に対しての理念に基づいています。

それでは次は定義にて『多岐にわたる社会主義』について説明です。 日本では『冷戦時代の共産主義国』が『社会主義』となのっていたことにより『社会主義の定義』について誤解が生じているようですので次の章は「その『社会主義』とは何をさすのか?」という課題に迫りたいとおもいます。

 

【多様な社会主義】

 *注意:この章は長いです…。

 社会主義はだいぶいろいろな形に分かれます。 社会主義は非常に多岐にわたる構造でしてそれぞれ違う形式の社会主義が歴史および現代の世の中で代表されてきました。 マルクスいわくは資本主義と共産主義への分岐点であり『革命』により達成されるものである。 しかし、対外他の社会主義は『改革』によるものです。
 社会主義という政策思想は元来「社会利益」を目的としています。 

おそらく社会主義と聞いた場合多数の個人が連想されると思われるものは『集産経済』および『左翼』というカテゴリーに他ならないかと思います。 そしてその『集産主義』の急進派である『共産主義』もしくは『マルクス主義』を明示している国々また個人が『社会主義』と名乗っていたためアメリカおよびその影響下にある日本において共産主義との同義語として扱われる拝見が見受けられます。 しかし全世界に普及した西欧啓蒙哲学から派生した政治学の発祥地であるヨーロッパにおいて『社会主義』の定義は非常に広い意味をさします。 要するに前文にも述べましたように全般的に社会への利益の還元を目指した『結果平等』を意味する定義として使用されています。 いわばアメリカにおいて『保守主義』の反義語として用意られている『リベラル』(経済的にも社会的にも平等性を重んじる改革的という意味で、つまりは『自由社会主義』)がヨーロッパやカナダ、オーストラリアにおいては『社会主義』として定義されております。

 しかし、『社会主義』と『リベラル』は同義語ではありません! この重大な定義は今だ世間でまかり通っています古い『1次元方式』においてあやふやに定義されています。 そこで推奨されている『2次元方式』により分析しますと非常に明快に理解できます。 

この2つの理論を『平等性』に対するそれぞれの観念から考察して行きましょう。

まず『社会主義』は基本的に税制や公共設備の充実などによる市場の行政介入を行い福祉による社会の平等性を実現する理論、つまりは経済的尺度においての平等性を重視した理論です。 そしてその急進派つまり経済的極左に位置するのが前の章で説明しました『共産主義』です。 

かわって『リベラル:Liberal』つまりは『自由主義 : Liberalism / Libertarian』とは性や教育、法、人権における偏見や差別意識に対する良識を広め権威や格式からの束縛からの解放による理論、つまり社会的尺度においての平等性を重視した理論です。 そしてその急進派つまり社会的極左に位置するのが後の章にて説明します『無政府主義』です。

 


  そこで上図をご覧ください。 赤色で表示されています範囲は社会主義でありリベラルでない。 黄色で表示されています範囲はリベラルであるが社会主義ではない。 そして橙色で表示されています範囲はリベラルかつ社会主義であります。 この『社会主義』と『リベラル』の重なった部分がつまりは『自由社会主義:Liberal-Socialism』となり経済的そして社会的に左翼つまりは世間一般に『新左翼』と呼ばれる真左翼ともいえる理論でしてその急進派が『アナルコ・シンディカリスト』もしくは『無政府共産主義』です。 

 これらの考察をさらにまとめますと社会主義者が「社会への利益の還元」および「平等性」を誇示するならば『自由社会主義』を明示することになるでしょう。

 そして『共産主義』とは経済面での社会主義ベクトルの端にあたる思想でレーニンやスターリンそして旧ソ連属国や中国などの国家統制という権威を重んじ社会面で平等性を否定した国は定義上は社会主義ですが、経済調整を行う国家機関が強大な権力をもち官僚組織が腐敗したため、再分割された富が暫定的軍事力および官僚エリート集団への賄賂として流れ込み、計画経済の調整権のある者とそうでない者の間の歴然たる経済格差がひろがりました。 それゆえに、主にヨーロッパにおいての社会主義者など新左翼の俳からは社会主義としての定義を疑われています。 そしてせめて国家共産主義者で現在でも社会主義としてあがめられている理論は『カストロ主義』ぐらいでしょうか。 一応影響力の強い国家統制が存続していますが権威の度合いが比較的上記の国家共産主義理論にくらべ低いので新左翼の俳から社会主義としての定義は否定されていません。(そのかわり国民総生産は低いですが)

 無政府共産主義者は自由社会主義の顕著な例として受け止められ近年新たに研究され始めています。  つまりは無政府共産主義では西洋諸国では社会主義、アメリカではリベラルと呼ばれる理論である自由社会主義は『経済的』にも『社会的』にも平等、つまりは結果的平等、という点にて「理論的に」結びつ






きます。 しかし同じ自由社会主義において、無政府共産主義が『結果的平等』の最終的な形態「『完全なる平等』を意識した国家組織および経済機能からのエクソダス(脱出)」を唱えている側面に対し、極左よりも中央に近い自由社会主義者、つまりは次の段落で例示します『新マルクス主義』や『社会民主主義』など、は常に「経済における賃金の循環」また「立法と経済循環の仲介者」としての「政府の存在」を誇示していますので「実質的に」相違します。 

 それではその顕著な2つの『新マルクス主義』と『社会民主主義』について説明します。 この2つの理論は「『民主主義』を基盤とした『社会主義』」を表明しています。 むろん私および当サイトは『反マルクス』を掲げていますが『手引き』においてですのであえて客観的に説明いたします。 『社会民主主義』はある程度の『自由市場主義』および『自然発生性』を保持していますので私と当サイトにとって限界範囲で許容のしえる集産主義の度合いです。
 『新マルクス主義』は「レーニン主義を省み元来のマルクスの教義への帰化」を唱える新左翼の一派で、『誤った良識からの脱却(前章参照)』および『民主主義的社会主義:Democratic-Socialism』の導入により「経済的構造の大々的改革による『資本主義』の打破(全てのマルクス主義のスローガン)」の遂行による『計画経済』の導入により国家社会主義や独裁社会主義によって生じた巨大な経済的格差を元来のマルクス主義の正統性を弁証を誇張しています。 さらに賃金の分割および法の必需性に念頭をおいているマルクス主義者である故に『無政府理論』に対しても懐疑的です(次章参照)。 要するに自由市場経済をほぼ完全否定するだけでなく『人間性強説』に基づいた、民主主義制度の中での熟慮を重んじた『計画性』による、『自然発生的制度』の否定でもあるわけです。 元来のマルクスの教えに従い『市場主義/資本主義』からの離脱、つまり脱皮による社会の進化、を断行しない限り景気変動に左右される市場経済を中心とした不安定な社会が続き、個人の社会的束縛からの開放はありえないという摂理に固執しています(【マルクスVSウェーバー】参照)。 

 一方『社会民主主義』は競争による生産効率性および国民需要への柔軟な対応の維持のための『自由市場』においての競争の存続を認めるが常に政府が仲介組織として健全な労働条件を整え経済の安定性を制御する責任制を負うという理念に基づいています。 その中でもケインズ経済学派(社会民主主義派と反社会主義派がいる)においては政府は景気循環の暴走や総需要の低下および個人間の購買力の格差拡大などの市場における機能障害から市場の起動修正を行政が介入する理念を啓示しております(【古典経済政策とケインズ経済政策】を参照)。 さらに『社会主義』の醍醐味である『結果的平等』の達成は行政が『福祉政策』を充実させ国民の生活安全に責任制を担うこともあげています。 その上で『自由市場主義』と『計画経済』の対立する視点を『民主主義』という制度の基で和解させた上で総合機能を果たす理論であります。 『マルクス主義』が『計画経済』の導入による『自由市場主義』においての『自然発生的機能』への懐疑を啓示しましたが、『社会民主主義』は『計画経済』の規模の拡大による『官僚主義の肥大』の恐れを懸念し『迅速な需要の変化(ファッションなど)への対応』およびビジネスの発展から得られる国民総生産(GDP)の増加分を『公共事業』にあてる『国庫の収入源』としての存続を認めています。 それは社会民主主義の提唱者の一人マックス・ウェーバー氏が『経済的構造から来る不平等』だけでなく『社会的構造から来る不平等』に着目したところにもあります(【マルクスVSウェーバー】参照)。 そのために民間と官僚の両方の存続を認めたうえで柔軟に世相の変化に対応できるよう多元的議会の設立を目的とし、官僚組織の肯定的能力を発揮できるよう常に官僚組織および政治家を批評されるよう職務に対する緊張感を持たせることを目的としています。 そして『民主国家の存続性』を重視するため個人たちが国家の一員である誇りを持たせ(ファシズムのような統制的ではなく自由主義的な団結性のこと)そのために共有した価値観を持たせという古代アテネの直接民主主義に見られる性格も有しています。 しかし複雑化した近代工業社会においては、議会構造に対する専門的知識および運営能力を問われるため、国家のすべての個人が議会に参列しては立法や行政の運営があまりにも非効率である故、『代表者』を選出した上で『間接民主主義』を必然としています。 その民主主義議会を民衆である個人が信頼できるに値するカリスマ的存在として保つために強いリーダーシップを求めています。 これはウェーバー氏によりなぞられた国家と政治の精神的改革として知られております(【マルクスVSウェーバー】参照)。 

 さて、『自由社会主義』を、『新マルクス主義』と『社会民主主義』および急進派の『無政府共産主義/アナルコシンディカリスト』を例示し、説明しました。 これら『自由社会主義』は同じ『リベラル』上に位置していまして私自身および当サイトも共感する側面は非常に多彩に存在しています。 要するに社会からの個人の束縛および社会への利益の還元という目的においては一致していますが、要するに『手段』と『平等に対する観念』の違いがあるということですね。 私および当サイトは『非社会主義側リベラル』に位置しています。 つまり相反する2つの『リベラル』についてささやかな概要を比較検討していきます。
更に詳しい『リベラル』に対する考察は【古典経済政策とケインズ経済政策】および【結論:必需的な自由主義と実力成果主義(メリトクラシー)】 】にて解明いたします。 

この二つの相反する『リベラル』の違いは私および当HPにおいてももっとも興味深く研究の余地が多い非常に論議
を呼ぶ比較であります。 基本的に『自由(リベラル)社会主義』は一般的に『協同的自由主義』と呼ばれ、我々の主張する『反社会主義的自由主義(リベラル)』は基本的にただ『自由意志論: Libertarian』もしくは『右派自由主義』と呼ばれております。 そして私および当サイトを計画経済の象徴である赤旗に対抗しまして、『自由市場経済』を象徴する青旗にまじえまして『青き自由主義』と名しております。 基本的な違いは前節でも述べました通り平等性に対する観念の違いに他なりません。 どちらも性や教育、法、人権における偏見や差別意識に対する良識を広め権威や格式からの束縛からの解放を尊重しておりますが、『協同的自由主義(自由社会主義)』が財産所有権を縮小し公共財産を増やし意図的に個人の豊富を平均化する、つまりは『結果平等』に価値を置いているのに対し、個人の財産所有権を最大限に認め競争発展にじゅんする自由市場を許容し自然発生的機能により個人の責任性に応じた能力主義的な報酬を与える、つまり『機会的平等』に価値を置いています。

 *この時点で社会主義全般について解説しリベラルとの比較を明示し、マルクスとヴェーバーの対立する視点についてほのめかしました。『青き自由主義』および『協同的自由主義』に関する解釈は【結論:必需的な自由主義と実力成果主義(メリトクラシー)】にて解明いたします。 マルクスとヴェーバーについては次の次の章にて比較考察いたします。

 ではついにまっていました?!いよいよ『無政府理論:アナキズム』をマルクス主義との比較を交えてご紹介いたします! みなさん、産業革命およびフランス革命後の近代化の活気あふれる西ヨーロッパ世界に思いを走らせ、世界を混沌の藻屑へと落としいれた第二次世界大戦時代のスペイン市民戦争のどん底で自由を求めて戦う多くの個人の姿を彷彿させながらご解読あれ! 

P.S.下の【おまけ】はこの章ではあえて例示しませんでした他多彩な社会主義をご紹介します。 結果的に社会主義の観念とはほど遠いアイデオロジーでありまして、しかも私および当HPの主張する『青き自由主義(反社会主義リベラル)』にとって至極対立する理念ですのであえて伏線としてご紹介いたします。 ご興味のあられる方は是非ご解読ください。 なぜアドルフ・ヒトラー率いる『ナチス:ドイツ国家社会主義党』は社会的に極右であったが経済においては中道に近い存在なのか? どうして『右翼』と呼ばれる団体は経済的に右とも左とも定義されないのか? 貴族社会主義や原始共産主義は『反動主義』と呼ばれているが『革命』と『反動』の違いは何か? など伏線として興味深い内容盛りだくさんです!(イメージ暗いですけれど…)

 【アナーキズム/無政府理論】


* まず【無政府理論とマルクス主義:ヘーゲル左派】に入る前にアナキズム/無政府主義について解説いたします。

「アナーキスト(無政府理論者)とは混沌を拒むが故に無秩序を求む…。」


 これはとあるアナキストを表現した有名な慣用句であります。 でも誰の慣用句かはわすれましたw。 そもそも無政府主義とは政治権力が存在しない社会こそが理想であるという理念に基づいた自由主義の急進派にあたる思想でございます。 そして社会学においては『社会行動理論:Social Action Theory(個人が社会に影響を及ぼすという理論)』の急進派と位置づけされております。 歴史上で顕著であった無政府主義者の政治的行動は主にクーデターによる暴動発生や権力者の抹殺などの過激な国家破壊運動に代表されますが、このHPにおいては過激派だけでなく寛容的な行動も含みますしもっと広い分野での活躍においてのアナキスム(無政府主義)を紹介いたします。 たとえば基本的に国家権力に反抗する勢力を基本的にアナキスト/無政府主義者を明示していきます。 私自身は自己紹介にて『無政府』と明記しましたが、過激な革命闘争よりも「国家権威から無政府への権威委託的な改革」を誇示しております。 実際国家の存在が必然的とみなされている現代社会でありますが、複雑化した社会構造、相次ぐ国家対立、人種や宗教そして国家アイデンティティをめぐっての問題、そして国家中心的な社会福祉制度…今現在において無政府主義について今一度無政府主義について考察する時であると確信する個人もすくなくありません。 


 まずアナキズムについて理解するには『社会』という存在を認知しなければなりません。 【個人と社会】にて明記されておりますように『社会』とは『個人』同士が存在しかかわりあうことにより不変的に形成されるものです。 そして『社会構造』とはその中で歴史を経て築かれていき社会と個人の中での『価値観と常識』を形成する要素を築き上げてきました。 たとえば、なぜ学校にいくのか? なぜ働くのか? なぜ偉い人とそれに従う人がいるのか? 家族とは何か? 結婚とは何か? なぜSEXに対するタブーがあるのか? 人種とは何か? 法律は誰の手によって創案されたか? などなど数え切れないほどの社会構造が存在します。 異文化に少しでも触れられた方々、自分が人とは違うと感じる方、社会から無用として扱われた方、人生について悩んでいられる方はその考察をする上で非常に恵まれているでしょう。 おそらく日々当たり前に生活をしている個人達よりも社会構造を敏感に感じ取ることができるからです。

 『社会構造理論:Social Stractural Theory(社会が個人に影響を及ぼすという理論)』は常に上記の社会構造を中心として社会について考察していきます。 それは社会構造そのものが普遍であるという考察、つまりは社会が個人を形成しているという理論です。 おそらくこの理論が社会哲学において多数派を占めるでしょう。 なぜかというとそれが考察し易いからにほかなりません。 保守的な『構造合意理論:Structural Consensus Theory』または『機能主義:Functionalism』は社会構造とは個人達をまとめあげ秩序を形成していく故に普遍的に存在しそのどれもが機能的でありその形態はすべての個人が納得する形で存在するという理論です。 つまり『国家』および『政府』というものも『社会構造』と同じく社会を維持していくに必要不可欠であると唱えます。 変わって革命的な『構造対立理論:Structural Conflict Theory』は社会構造とは個人同士の支配構造の象徴であり力関係の均衡を形作っているという理論です。 『構造対立理論』は『マルクス』、『ウェーバー』そして『フェミニズム』により構成されております。 マルクス曰くは経済と政治組織の劇的な変換、そしてフェミニズムはジェンダーロール(性的役割分担)の劇的な変換と双方は常に『構造の転換による構造の維持』を掲げております。 そしてマルクスもフェミニズムもどの社会も同一的だという見解が強いです。 つまりは社会構造そのものが個人に影響を与えているので社会構造そのものが変化をすれば力関係も変化するという理論です。 しかしウェーバーだけは特質な理論を打ち出しております。 ウェーバー曰くは「社会構造とは複雑でそれぞれ文化により異なる」と上記2つの理論とは異色を放ちます。 理由はウェーバーが『対立理論者』であると同時に『社会行動理論』の発案者でもあったからです! つまりは社会は個人によっても影響されるという視点に着目したところです!

 ではアナキズムの原点である『社会行動理論:Social Action Theory』について迫ります。 社会行動理論ははじめ文化の違いという視点から発展していきました。 文化的相違とは国家間や民族間だけでなく同国家や同文化においても指します。 社会哲学が発達した当初は社会が個人の性格を形成していくという理論が主流でしたが、近代以降もしかしたら「社会構造とは個人の意識的なものではないか?!」という啓蒙が現れました。 それは社会構造とは必要に応じて多種多様に変化していくというもので、マルクス主義やフェミニズムなどの『構造対立理論』においては「構造の変化なしには個人の変化はない」という理論に反論し「個人の意識改革により社会構造は如実に変化する」という理論を築き上げました。 たとえばステータスや団体意識とは個人が社会において吹き込まれた価値観により生まれるものでそれに気づき視点を変えることで意識が変化するのです。 要するに劣等感や差別意識とはステレオタイプなど社会構造の中での団体意識や同一性などによる思い込みに帰するということです。 そしてより多くの個人が『社会』に対する見解を持つことにより社会を変わり易いものにするのです。 そこが数少ないオピニオンリーダーによる社会支配による社会構造理論との大きな違いです! 

 もともと社会行動理論とは個人が社会そしてその他個人に与える相互影響および社会の相違性を分析する理論でしたが、序々に社会構造が個人に影響を及ぼす理論に反論する理念が強調され始めました。 そしてその原動が個人の自由(Individual Liberty)を牽制している社会的権威に反旗を翻す思想が生まれ、それが国家反逆および反権力につながり結果的にこの章の序説で述べましたモダンな『アナキズム』という啓蒙思想の一派を生むにいたりました。 

「独裁主義において、少数派が多数派を搾取する、
民主主義においてはその逆である(多数派が少数派を搾取する)」


 おそらく現在の世の中において民主主義が多数の個人の自由と尊厳を守る最適な政治手段としてみなされているでしょう。 そして独裁においても権威が実力と責任制ともに優良で普遍的カリスマを兼ね備えている場合個人の生活を保障するに値するとみなされていましょう。 しかしどちらも『国家』という存在価値の上になりたち『政府』という『国家権力』の統制化により制御されている社会です。 そして社会の秩序を保つために設けられてきた『法』もまた『国家』を介入して個人へと向けられていきます。 我々の概念で『無政府主義』という概念を考察することが困難であると見受けられます。 また多数の個人からは「無政府とは混沌的社会を作る」と思われてしまうでしょう。 これらの理由は我々個人および祖先達が過去から現在にかけて『国家権力』および『社会構造』の影響下において生活してきたからに他なりません! 

 たとえば『秩序と法律』について考察してみましょう。 おそらく個人同士が社会というまとまりの中でお互いの関係を安定的なものにするための仲介、また社会に損害を与える悪質な行動を取り締まるものという定義が当てはまるとおもいます。 しかし、今現在生活している中でどれだけ法について考える機会があるでしょうか? もし何かしら個人もしくは社会に悪影響を及ぼすときにその原動が「法に触れるかどうか」というよりも「社会からの信用を失うのでは?」もしくは「自分にとって本当に徳であるのか?」と思い浮かぶことが自然であります。 そして果たして法が必ずしも公平であるでしょうか? そしてなぜ現代社会において法が無数に存在していることに疑問を抱くはずです。 また法律家や弁護士などの法の専門家を除いて法の大半を暗記している個人は少ないはずです。 そして必ずしも全ての法を守ることが美徳とされ無い場合もございます。 

 そして国家という存在について考察しますと、国家とはなぜ存在しているのか? またなぜ国家同士での争いが起きるのか? そして国家が優れていることで全ての個人が徳をするのであろうか? という疑問に遭遇します。
 
 では次に社会の自由主義化が進み独裁でも民主主義も存在しない国家の消滅した自由放任社会が現出した場合、経済構造はどのになるのでしょうか。 【無政府理論とマルクス主義:ヘーゲル左派】に入る前に現在の定説をご紹介いたします。

 国家権威が存在しないということは法を制定する『立法』、社会の仲介として存在する『司法』も財政や金融をになう『行政』の存在が無いということです。 つまり賃金や富を再分割する機能も社会で個人が行うべき義務もそして象徴的権威も存在しないのです。 その中で経済を定義するとすれば「すべての財産を共有もしくは私有」する結果となります。 つまり金銭による取引がない個人の信用を最重視した万物共有の社会、つまりは無政府共産主義、また金銭取引により物流を存続させ完全能力主義の上に成り立つ社会、つまりは無政府資本主義の二つ、要するに経済的に極左と極右のどちらかの社会となるわけです。 これが現代社会において定義されている無政府社会の経済構造になるわけですが、あくまで現段階でアナキスト社会を現出させた場合の想像図にすぎません。

そもそも無政府社会を熱望した思想家の思いはどのようなものであったか、次の章にてふれていきます。



【無政府理論とマルクス主義:ヘーゲル左派】



 さてここまでアナキズム/無政府主義の大まかな構想を説明しました。 そしてこの項では歴史上顕著で多数のアナキストが信望する師に当たるアナキスト/無政府主義者を紹介いたします。 よく政治経済に精通していない個人たちにとって無政府主義と共産主義が双方とも急進的左翼思想である故同一視しがちになる傾向が伺えることがありますが、【多様な社会主義】で説明しました通り共産主義が計画経済/社会主義の急進思想つまりは経済的左翼思想であるのに対し、無政府主義は自由主義の急進思想つまり社会的左翼思想にあたるわけです。 たしかに【典型的な集産主義である共産主義】でも触れました無政府共産主義者であるトルストイ、プル-ドンやバクーニンは共産主義および無政府主義の双方を信望していますがおなじ共産主義でも新旧マルクス主義や国家共産主義者のように無政府主義に懐疑的な共産主義も存在しまし、無政府資本主義のように経済的に全く逆のベクトルを持つ無政府主義者も存在します。 そしてこの章では無政府主義者達から最も信望されているドイツ啓蒙思想の中でも顕著なヘーゲル哲学の急進派であるヘーゲル左派から派生しました無政府主義者達である、マックス・シュティルナー、レフ・トルストイ、ミハイル・バクーニン、ピエール=ジョゼフ・プルードンを例示していきます。 そしてその無政府思想の反例をヘーゲル左派に一時的に属していましたが後にヘーゲル哲学に懐疑的になり脱退し急進的無政府主義に反旗を翻したカール・マルクスの思想を元に分析していきます。 

 まず【左翼右翼の正しい定義】で述べました通り、一次元方式のコンパスでは共産主義と無政府主義の正しい配置関係および国家共産主義と無政府共産主義の違いすらわからない使い物にならない代物であることはすでに周知の通りですね。 そこでプルードン、バクーニン、トルストイら無政府共産主義者とマルクス率いるマルクス社会主義者および国家共産主義者の思想の違いを例示していきます。 

 マルクス曰く無政府主義者は理想におぼれるが故個人の性格そのものを支配している社会構造および不平に分配された富への見解を見失っているということです。 マルクス自身も無政府社会を最終的に迎えることを夢想していますが、現代の工業国家資本主義社会から無政府主義社会へ進化するには段階を踏まえた2、3回に渡る革命を基に社会構造の転換を経なければならないと説いています。 つまり尊厳により縛られたカースト社会を基にした封建社会からの打破に成功した我々は自由市場を基にした資本主義社会から福祉を中心とした社会主義、そして金銭取引を廃止した共産主義社会を経て政府および国家そのものを放棄することにより無政府社会を迎えなければならないのです。 つまり現段階での社会構造では個人の啓蒙が未発達であり個人を導く構造の転換が無い限り無政府は混沌へとつながると明示する思想がマルクス主義です。 

 その見解に反旗を翻した思想家たちがアナキスト/無政府主義者です。 とくに無政府共産主義者たちはマルクス主義、フェビアン社会主義および全て国家および社会構造を中心とした概念に反発しています。 その無政府共産主義は経済社会ベクトルは一貫してどちらも左に向いていますが実際基本的な哲学面または方法論にて相違する部分がいくつか見受けられます。 たとえばトルストイがイエス・キリストの本来の教えに立ち返り、神の前での皆平等および物質社会の終焉を迎えるための無抵抗、無謀力的な無政府革命の遂行を望んでいますが、バクーニンは個人を揺さぶる闘争心を基に権威を象徴する全てのものの破壊を遂行した上での社会の浄化を行い個人と個人が平等で博愛に満ちた田園社会の構築を促し、プルードンは理想よりも理論的考察に立ち返り、不平等を助長する社会構造の改革による個人それぞれの労働および能力に対する公平な報酬を分配する貨幣経済に変わる『資格証』を用いた無政府改革(革命と相違)を目指しています。 つまりトルストイが穏健かつ平和主義的な革命を、バクーニンが過激で暴力的な革命を重んじたのに対しプルードンは革命に懐疑し改革による合理的進化を掲げています。

 おそらく相違する共産主義の間での論争で一番熱いものがなんとも『マルクスVSバクーニン』でしょう。 まさにこの2人の論争は『水と炎』です! マルクスが社会構造の発展を理性的に受け止め個人の良識の変化を信じたことに対し、すべての俗物的な社会構造および人間的物質欲そのものの根本的打開を情熱的に説いたバクーニンはまさに革命遂行派の過激派共産主義者の集団を真っ二つに分断するにいたります。 この二つの思想はともにドイツで発生したヘーゲル左派運動を原点としていますが、20世紀前期ヨーロッパにおいてこの2つの相違する革命主義の性格は方や北へ方や南へと別方向へと分散していきました。 冷静な理性に基づき規律を整えることによる人間性の成熟を促す北ヨーロッパ文明と人間に基づく野性的な情熱に基づき自由、平等、博愛を掲げ愛と勇気をもって生きることを望む南ヨーロッパ文明は方やマルクス的を方やバクーニン的革命が根付いていくのでした。 そしてトルストイのような穏健な革命は血気盛んな20世紀ヨーロッパにおいては流行しませんでした。 しかし世界の国家同士の係わり合いが深くなったその当時、そのトルストイの思想ははるか東へと流れていきました。 そして無抵抗無暴力という思想の根源はかの有名な革命家ガンジーにより受け継がれインド独立運動の原動力となりました。

* 参照:『アナーキズム、アンリ・アルヴォン著、左近 毅訳』


 この章では無政府共産主義を例示しましたが、では次の章では経済的に相違するもう片方の無政府主義を例示していきます。 そしてその章が管理人およびこのサイトが夢想する無政府社会像である『シュティルナー主義』をご紹介いたします。


【最終章:マックス・シュティルナー:究極の自由主義者】
2017-11-23 20:10:34 | Art&Blue-Liberalism
人はあらゆる夢に描いた理想と現実的な利権などを追い求めてその時代と状況に応じて政治制度を発案し実行してきました。しかし、封建主義、自由民主主義、そして社会主義においても国家共同体を支配統一する単一の国家行政組織が指揮をとって執行してきました。 どのような政治制度を運用していても、多数の人間個人の意見がまとまらなず意見不一致になったときに一原則をもった制度が破たんしたり物事の意志決定が進まない状況が出てくることもあるでしょう。そこで現在運営している政治制度の一貫性と推進性を保つために唯一最終決定権をもった権力を独占する組織が必要とされ、それが国家とその行政という権力であります。それ故に、自由民主主義のように個人間の機会均等を、社会主義のように結果的な平等を原則的に約束していたとしても、最終決定権を与えられていた国家権威の中枢を担う個人が誰よりも不平等に富と権力を独占する機会を保持しておりました。

そして、国家行政という単一の行政組織を廃止し個人どうしが集まり密な話し合いで政治政策を執行することを掲げていた無政府共産主義においても国家とはまた別の個人を束縛する拘束力が存在しそれが問題となりました。それはそこに集う個人集団が平等に生きる権利を行使するためにその資源を分配していたわけですが、個人みんなが他の個人のみんなのために行動し思わなければならないという強力な利他の精神によって制度が維持されていました。そこで問題になることは個人が他の誰よりも突出することが疎まれ、思考を思いめぐらせるときやなにかの行動を起こすときには自分以外の他人からの承諾を得なければならないという事態です。その国家行政とは違う集団の見えない力が個人の意思と行動の在り方を定める権力のある個人の自由を束縛するものとして働きます。そう、個人の集団である社会という抽象的な力が国家や宗教に替わっただけなのです。

真に個人一人一人がそれぞれ個性のある思考をし行動できる真に独立した自由を得るためにはどうしたらよいか。世の中に存在する有限な資源を各個人の間でそれぞれの自由意志をぶつけ合わせ交渉し取引させることによって生産力向上と交易の自由化が可能になり物質的な欲求が満たしやすい世の中になりました。すでにアダムスミスが経済的な尺度での自由主義を提唱した時から物質的な自由は顕著に上がったとされるでしょう。しかし、最終的な意思決定権がいまだ、社会という抽象的な権威の所在も含め、一つまたはごく少数により独占されています。 故に、どうしても資源配当がひとりよがりな決定事項により不条理に不均衡に配分され、個人の生活状況を左右する意思決定のが抑圧されているため、多くの個人の不満は払拭されません。

これを摂理とあきらめるのではなく、国家もしくは社会に保証してもらうことを期待するのでもなく、真に個人が自分自身が納得のいく自分自身の意志で思考して行動し、自分で自身を律しながらも自分の欲求と理想を満たす努力をしてその生きた痕跡を自分の意志と能力によって築き残していく究極の自由主義を唱えた御仁のひとりがマックス・シュティルナーです。

まずシュティルナーは国家や行政組織というものに批判的でした。大昔では宗教の神の脅威、一昔前では君主の威厳に対する敬いにより多数派の個人の意思と行動を支配してきた。国民国家および社会(個人が集団化することによって生まれる目には見えない拘束力をもった権威)は、各個人等の自由と権利を守るという形式上のみの約束を提示する見返りとして、個人等にはその権力機構が実際に与えてくれる御恩よりもより多くの奉公を強いられます。全うな見返りが必ずしも約束されない国家や社会との社会契約も実体として還元される保証がなくとも、個人等がその義務と同等の見返りを得られる権利を「信じている」ということで、国家や社会との権利と義務も神の脅威も君主の権威とたいして変わらないのです。

シュティルナーは前章で述べた他の無政府主義者たちとは違い個人の欲求を正直に認め向き合うことと所有物を持つ自由を唱えた。彼の時代の無政府主義者たちの殆どが、果てしない欲求と所有物へのこだわりが他者への思いやりを奪い貧富差や権力の不均衡などの歪をうみ結果的に個人を虐げていると主張した。しかし、個人の自由意志に反した欲求を満たせる機会と結果的な所有物の分配の不均衡は、独占された権威権力の贔屓による介入により行われるとみる。シュティルナーは欲求と所有そのものを否定するのではなく、その分配を制御している権力機構に批判を浴びせている。 

シュティルナー型無政府主義の特徴は、欲望などの欲求そのものは人間が生きるためのバイタリティとして認めそれを生かすことを奨励し、所有物への執着も生まれ持ってそなわった肉体への執着と個人がなにかを成し遂げたときに得る代償として認めたような解説をしていました。 彼の文章はどこか宗教的な雰囲気もあり精神論的なニュアンスも彷彿させていたため物質世界においての具体的な説明となりにくい部分もあります。 だが、彼の思想に共感した個人主義に基づいた新しい無政府主義者の殆どがシュティルナーの言葉から影響を受けそれぞれ思想家たちにそれぞれの解釈をされていきました。

シュティルナーの人生観はどこか人間個人が一匹オオカミとして生きるように説いていると誤解をされがちであるが、人間個人は一人では生きていけないことも承知しているように見受けられます。だから、個人同士があつまる共同体および個人同士の間の契約の必要性も説きました。 従来の政治制度における共同体(国家や社会)と契約(法治や商業)とは違い、大きな権力に依存せず、その各々の時場所状況により個人等お互いが納得しあった形で自然発生に生じるものを提案した。彼の提案する共同体と契約は常に絶対的な権力により保証されるのではなく、その時々の場所と条件に応じて生まれては消えるものであります。

おそらくシュティルナーの描いた世界図はアダム・スミスの描いた世界図よりも更に広範囲に記したようなものでしょう。物質やサービスだけでなく、共同体や契約も個人等の必要性と欲求に応じて自由に交渉し獲得されるようにしたかったように見えます。ただ物やサービスと違い物質的に感知しにくい信頼や意志を扱っていくものなので意見の不一致等が起こりやすくまたそれによる争いが起こりやすくなるという批判もあるでしょう。ですので、実践が困難にとらえられ未だ実践した文明はありません。 ただ彼の影響を受けた多くの思想家がこれを理想論として諦めず、実践への試みの希望を忘れず、あらゆる権力を独占する組織や概念に対しての闘いに挑むときに自分の意志がブレないように維持する原則として信望し続けてきました。

シュティルナーの時代は国家と社会が宗教や封建君主に替わる新たなる権威として強調されていましたが、私たちの住んでいる現代世界においては国家や社会に替わる疑わしい大義名分をかかげて我々個人の自由を束縛する権威が台頭している可能性があることを念頭に置いておかなければなりません。物質的な感覚とは違い感知しづらいものですので、常に意識を払うのが難しいでしょう。ですので、政治的、社会的、精神的な自由主義の達成は経済的な自由主義よりも思い描くのが困難でしょう。ですが、自分が自分の意志で動き考え真に自分の納得した人生を歩むことを志したのであれば、シュティルナーの掲げたような究極の自由主義を常に意識し実践への可能性を諦めず望み続けることとなるでしょう。